「年収の壁」がテレビニュースや新聞に盛んに取り上げられています。人手不足を解消の為などと言われていますが、「壁」が何種類もあり、年金や健康保険、税金なども絡んで複雑怪奇。太平ビル分会などのパート女性労働者などでは、うっかり「壁」を越えてしまって手取りの減った夫に殴られちゃった人まで居て、身近であってまた案外大きな背景を背負った社会全体に関わる問題となっています。
幾つもある「年収の壁」
女性短時間パート労働者が意識する「年収の壁」は大体100万円前後に集中しています。自身に所得税が課税される103万円の壁。配偶者の健康保険扶養家族に入れる130万の壁。そして最近にわかに出現した、自身が健康保険、厚生年金に加入しなければならなくなる106万円の壁。この他にも個別企業の賃金規定に由来する壁など様々な壁が林立しています。
さらに話をややこしくしているのは、それぞれの数字の中身が微妙に違っているのです。103万円には賞与や残業代などを含む実際の年収。一方106万円は計算上の「所定内」賃金で、その他残業代など一切含まず。ところが130万円には賞与残業代は言うに及ばず交通費や失業手当なども含まれます。分かりにくいでしょう。
130万円の壁を越えると
「壁」があることによって年間の働く総時間を一定以下に抑えようと年初から入念に計画する人が居たり、時給が上がると「壁」にぶち当たるので賃上げは歓迎しない、とかいう奇妙な現象が起こっています。年収130万円未満だと配偶者の健康保険の被扶養者認定が受けられ、自身が健康保険料を払う必要はありません。厚生年金や健康保険は、1週の所定労働時間および1月の所定労働日数が常時雇用者の4分の3以上(週30時間一日6時間程度)働く必要があるので自身は厚生年金に加入せず、保険料も発生しません。自身の年金は国民年金「3号」被保険者となり、これまた保険料は発生しません(年金給付はあります)。
つまり130万円を以上になると自身で国民健康保険に加入しなければならず、例えば大阪市では毎月約13000円くらいの保険料となります。国民年金では保険料を支払わないで済む「3号」から「1号」に変わり毎月16250円の保険料となります。そして「1号」も「3号」も年金の支給額は同じです。間違って131万円にしてしまうと保険料だけで年間30万以上発生するのです。そしてこの健康保険の被扶養者認定は企業によっては夫の賃金の「配偶者手当」の支給基準となっていたりすることもあり、夫の収入のダウンに直結するのです。冒頭の夫に殴られちゃった組合員はこのケースでした。後で聞くと夫は「離婚するっ」とまで逆上しおさめるのに難儀したそうです。
この社会保険加入要件は2016年からの健康保険、厚生年金の適用拡大で一部変動しており、それが106万円の壁につながっていきます。
新たな106万円の「壁」
社会保険の加入要件は、従来週や一日の所定労働時間が常用労働者の4分の3以上でした。短時間パートで働く女性は通常勤務先の社会保険には加入せず、多くは夫の健康保険の扶養家族となり、国民年金の3号被保険者となっていました(加入したいと希望しても話も聞いてもらえませんでした)。ところが政府は年金財政のひっ迫などを理由に2016年から健康保険、厚生年金の適用拡大の方向に舵をきりました。現在では従業員数(4分の3基準で厚生年金に加入している人数)101人以上、来年10月からは51人以上の企業に働く週に20時間以上働き、所定内賃金(労働契約の時間給×月所定労働日数)が月額88000円 (年額約106万円)以上のパートは健康保険、厚生年金に加入し、保険料は賃金から控除することとなっています。
ここでも106万円を超えると従来夫の健康保険の扶養家族であり、国民年金の3号被保険者であったものが、自身で健康保険、厚生年金に加入することとなり、新たに健康保険料と厚生年金保険料の支払いが発生します。月額88000円ならば大阪の協会けんぽ健康保険料月額4500円ほど、厚生年金保険料は月額約8000円ほどになり、年収106万円で保険料年額約16万円となります。これも結構な負担増といえます。しかしこの負担増は一方では健康保険の傷病手当などの給付が受けられたり、年金受給額に反映したりするので130万円の場合のようにまるでやらずぶったくり、というわけではありません。
政府の「壁」越え対策は
つまり130万円にせよ106万円にせよ「年収の壁」をパート労働者が超えてしまうと大きく自身の手取りや世帯収入が減ってしまう結果に結びつくのです。厚生労働省によると昨年10月の適用拡大で新たに社会保険加入の判断に迫られたパート労働者のうち、働く時間を増やして収入増で負担増を乗り切った人が21%、働き方はそのままで加入した人は31%、収入を106万円未満に減らした人が48%だったそうです。
そこでこの10月から政府は特に106万円の壁に対する「助成金」をひねり出してきました。労働者の負担増に対策をした企業に対し1,2年目は一人当たり20万円、3年目は10万円、計50万円の助成金を支給することとしました。上に述べた自身に新たに発生する保険料年額約16万円を、企業が「手当」として労働者に支給すると(つまり労働者は保険料を支払っても手取りは変わらない)助成金が支給されます。さらにこの手当は社会保険の保険料算定対象としないというのです。同一企業内で、一方には国から助成金まで出して事実上の保険料負担を行い、他方ではすでに社会保険に加入している労働者との均衡など取れるのでしょうか。
130万円の壁は、越えても2年間は事業主が「一時的な超過だ」と証明するだけで夫の加入する健康保険の扶養家族に引き続きなることが出来る、としています。
なんだか106万円は無理筋の助成金までひねり出して「さあ越えろ」と言い、130万円はしばらく目をつぶるけど「無理して越えなくても良いよ」と言っているようです。国の施策がこんな中途半端なことで良いのでしょうか。
次に控える3号被保険者問題
政府の施策が一貫性を欠くように見える背後には国民年金3号被保険者の問題があります。1986年国民年金法が改定され(新法)、従来厚生年金や公務員の共済年金などの被用者年金と、自営業者、農業者などが加入するの国民年金など数種の年金制度が並立していたのが、すべての人が国民年金の被保険者となり、同時に被用者年金にも加入するという「二階建て」の制度となりました。自営業などは1号被保険者、厚生年金など被用者年金は2号被保険者となりました。そして2号被保険者の配偶者で一定の収入要件にある人は3号被保険者となりました。この3号被保険者が130万円の壁や新たに106万円の壁と強く結びついているのです。
3号被保険者は106万や130万の壁で触れたように自身で保険料負担はありません。一般的には2号被保険者の加入する被用者年金が負担する保険料が3号の分も含めて国民年金会計に支払われている、と言われています。しかし実際は3号被保険者のいる2号被保険者と、単身の2号被保険者では、収入が同じであれば支払う保険料は全く同額です。正確にいえば2号被保険者の配偶者の国民年金保険料はその企業などの被保険者全体で支払っている、ということです。そして40年間保険料を支払った自営業の1号被保険者の受け取る年金は、40年間3号被保険者だった人の受け取る年金額と同一です。
1986年以前の旧国民年金法(旧法)では、現在の3号被保険者に該当する人は国民年金の加入は「任意」でした。1961年に国民年金制度が始まり国民皆年金といいつつ年金受給者もまだあまりおらず、年金に加入しない人も多くいました。特に家庭の主婦層は「任意加入」としたので未加入者が多く、将来無年金者となる恐れがありました。
旧法当時の厚生年金などは今でいう2号の年金に3号宛ての加給金を付加することによって配偶者の年金とする、としていました。つまり年金の配偶者手当、あくまで年金の名義は2号被保険者ですが。年金も世帯単位の考え方です。新法ではさすがに年金は個人に属するものとして、配偶者も3号被保険者として独立の年金を受給できるように設計したまではよかったのですが、何故か上記のように保険料負担のない著しく均衡を欠く存在となってしまったのです。自営業者の配偶者は国民年金の1号被保険者となり保険料負担が発生しています。一方3号は保険料負担はありません。制度が歪んでいます。
現在3号被保険者は約700万人と言われています。新法のできた約40年前はさらに膨大な数であったと思われます。従来の任意加入制度で未加入であったこれらの人の強制加入保険料問題や、専業主婦の年金は夫の年金の付けたし、という古い概念に引きづられ中途半端で奇妙な3号被保険者制度となったものです。そして現在の「年収の壁」はこういった年金制度のゆがみと同根であり、3号被保険者の適切な改変なしては「壁」を乗り越えることはできません。
「壁」を越える政府自民党
厚生労働省によると昨年10月から106万円の壁に直面している101人以上の企業にいるパートタイマーは45万人、来年10月からの51人以上の企業では15万人、合計60万人の労働者がいるとみています。この年収の壁はこういった直接影響を受ける60万人の問題に限らず、幅広い労働者の生活と働き方に大きな影響を与えるものと思われます。年収の壁があれば多少の時間給の引き上げは歓迎されず、こういった意識の労働者が多数を占めることによってパート労働者の低賃金が長年固定化されてきたといえます。企業側も低廉な労働力が労せずして確保できるのですから制度は強固なものとなってきました。実際106万の壁の対象者が増えた背景には近年の最低賃金の引き上げの影響があるといわれています。
3号被保険者の制度改変は避けられないといっても、経営者の保険料負担増への抵抗など順調に進むとは思われません。人手不足の解消にとどまらず「「年収の壁」を越えようとすれば、多数の非正規労働者の低賃金や世帯の家計収入の大変動から家族の姿の変動、年金制度の組み直しなど社会の全般にその影響が及ぶことは必至です。政府自民党の「働き方改革」は掛け声だけだと難じている労働組合からは、例えば3号被保険者の問題に切り込む政策などはほとんど聞こえて来ず、労働組合の外にいる人達への浸透を岸田首相に許している現状を巻き返さなければなりません。