
以前のインタビューで)野崎さんは子供の自分に山谷の番組をテレビで見た、と言うてはりましたね。
テレビ。うちがテレビ屋さんだったから。
山谷の労働者の生活は?って言った時に、昼間からぽつんと公園で佇んで、ほんで魚を切り身で売ってるって。
うちの隣が魚屋だったから、北海道じゃ魚はまるごと買う。信じられなかったな。
それでうちに若い衆が来てたわけ。電気屋さんを始めるときに。うちは北海道でも札幌に近かったから、結構都会に近いところ、そこに中卒の丁稚奉公さんが来てて、住み込みの。昭和30年代、僕が小さいころ。
で、その人たちが親父の下で電気屋さんで働いて。やっぱり地道に地道に、のれん分けして。
お袋は飯場の女将さんみたいな、賄いをして、経理もして、子育てして。
だから、いわゆる。まあ大阪の朝鮮飯場とかいうそういうイメージがちょっとあってさ。そことは結びつかなかったんだよね、
だけど、なんか変わったところがあって、山谷。日本にはこんなところがあるんだなと。
まあ、ちょっと非常に怖かったな、怖い存在。恐ろしい存在。で、そっから、だからどうするんでなくて、やっぱりそこから抜け出すためには上方志向しかない、っていう、頑張って東京出かけて、いい学校に行って、というのを勝手に思ったわけや。
うん。そういうルートから抜け出る道っていうのは。北海道居たくなかったからさ。うん。このままで行くと、電気屋の息子にされるから、電気屋はやりたくない。
で、その電気屋をやらない理由で、東京行って東大に入ったらまあ親父も文句言わんかなあと、いうのが出発点。
それはだけど、それはちょっと違うなあっていうのが全共闘運動だよな。要するに全共闘運動ってのは、そういう根本的なものについてこう考えることだわな、その造反有理とか、帝大解体とかいうのはさ。それはもっと勉強しとけばよかったなって。ハハハ
野崎さん、経済学部やったかな、例えば経済をもっと深くとか、そういうこと?
いやー。もうちょっと漠然としてるな。なんかこう。やりそこなった感があるなあ。だけど結果的に好きなことしてたから、うん。
純粋に学問的にとか、そういうことではない?
そうだね。できたら学者になろうかっていう、公務員か学者だろうなあ。政治ではないんだよな。
